れですも色々

癌7 癌病棟の仲間達

病院は大きく、建物の中央にエレベーター、その左右に病棟が各階に2つずつあった。

私は婦人科だが反対側の病棟は外科の中でも主に呼吸器科。
これくらい大きく設備の整った病院になると、全道どころか本州からも患者は来ていた。

その内がん患者の割合はほぼ90%。

エレベーターの南側は大きい窓が南側にある「ホール」と呼ばれている空間。
動ける患者はここで食事も摂る。
端には大きなTV、ソファー、応接セット、隅には喫煙室があり、並びに患者の容態が悪化したりした場合の家族控え室とトイレもあった。

入院日からベッドよりも喫煙室にいるほうが多いくらいな私。
たちまちタバコ仲間とは仲良くなった。

肺がんの方は(というか私達も)は当然タバコを吸うのはご法度。
でも余命3ヶ月と言われている人に隠れてタバコを吸わせるというのは見ていて悲しかった。

後3ヶ月ですねと宣告されたその人は「きんき鍋」食べたいなあと呟いていた。
もう白血球の数値が激減しはじめ、そこら辺を歩くのも好きな物を食べるのも、残り1週間くらいだと。

ちょうど入退院の狭間だったので、鍋とはとてもいえない代物だったが作って持っていった。

男泣きしながら食べてくれたその人は私の退院直後、亡くなったと聞いた。

いつも明るく隣の病室まで響くような声で騒いでいたあの人も、歩けなくなるちょっと前に深夜の喫煙室で私の胸にすがって泣いていた。

妊娠と同時に癌が発見された人は、妊娠8ヶ月で帝王切開のすぐ後癌手術をした。
私が入院した時には子供はようやく歩けるようになっていたが、寂しそうに「この子は私と一緒に寝たのは数えるほどしかないの」と言い「死にたくない」と言いながら亡くなった。

亡くなる1週間前に個室から私達のいる喫煙室に運んでもらい、「さよなら」と呟いたその晩から意識がなくなった人もいる。

昼間のホールも喫煙室もいま思うと不思議なほど明るい雰囲気だったが、それは見舞いに来る人達やお互いの為の演技も多少はあった。

深夜や明け方、昼間とは全然違う横顔を見せていた人達。

ほぼ無事に帰れるであろう私に、すがりついて泣きじゃくっていたあの人は「ごめんね」と言っていたが、謝りたいのは私だった。

退院の日、症状が悪化しているのに見送ってくれた人は「もう二度とここには来るなよ」と言っていた。


婦人科病棟であの当時、がん患者で生き残っているのは私一人。

何故こうして生き残ったのが私なのかは判らない。








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